歩きながら考えたこと

ボーッとする時間、何も考えない時間、の重要性。不安があるとき、悩みがあるとき、解決策を考えようとして新しい情報をインプットすることで考えを整理しようとしてきたが、なにもインプットしないことも必要ではないか。脳を完全に休ませる時間を確保する。意識的に何も考えないことも思考の整理になる。脳にはもともとそういう機能が備わっている。理想は完全にオフラインにすることだが、現代ではなかなか難しそう。小学生の頃は暇だな、という感覚があったが、最近は全く感じないのはなぜだろう。情報が多すぎるからではないか。日記が続かない理由はなにか。書くこと自体に苦手意識はない。自分の一日に、記録するほどの価値がないと感じてしまう。自分が好きなことや、自分のために今取り組んでいることについて記録するならまだわかるが、自分が好きでもない仕事のことを、わざわざ書きたいとは思わない。過去を振り返ること自体もあまり好きではない。卒業アルバムを見たいというユーミン的感情が全くわかない。回復思考の特性で、常に今の自分の欠点と、今の環境の不完全な点にばかり注目してしまう。常に次の問題に目が言ってしまう。これをどう帰るのが望ましいのか。日記には次にやりたいことだけを書くのがいいのか。今日気づいたポジティブなことだけを書いたほうがいいのか。もともと自分は何がやりたかったんだろうという原点を書いて読み返すほうがいいのか。自分がもともと、問題に意識が向いてしまう特性があるなら、それを補正するには、他人のいいところを見つけたこと、世界の素晴らしいものを見つけたとき、自分がこれからやりたいことを思いついたとき、それらを記録しておく、というのが良さそう。反省点などはわざわざ書いて言語化しなくても無意識のうちに考えてしまうので、むりにもう一度書いて苦しい思いをもう一度する必要はないと思う。行きたい旅行先を見つけたらそれを書く。これから調べたいこと、勉強してみたい分野、キーワードを思いついたらそれを書く。なぜそれを思いついたのか、きっかけも合わせて書いておく。自分の幸せにとって親密な関係の友人が絶対に必要なのだが、それを今は満たせていないと感じる。なぜそれができないのか、単に技術的な問題なのか。小学生の時に紙飛行機ブームを作ったことを思い出した。体力的、精神的な余裕があって初めて、文化的な活動をしようと思える。この3年くらいで疲れてしまったのかもしれない。自分で言うのも何だが、この部署に来てから、なんだかんだいろいろなことを学んだし、手を抜くことなく、決していい環境ではない中で、主体的に勉強して、問題を解決してきた、我ながらよく頑張ってきたのではないだろうか。自分が苦手だと思っている対人関係も、おそらく他人から見たら、そこまで苦手なようには見えないと思う。なんだかんだいって必要だから工夫しつつこなしてしまえるし、なんとかしてきたと思う。舞台の電子チケットのQRコードを端末にかざすときに、ものすごい手が震えてしまったことを思い出した。論理的に考えれば、全く不安に思ったり緊張したりする必要のない場面なのに、頭ではわかっていても、急激に不安が顔を出す。上司に話しにくいことや複雑なことを話すとき、客に電話を掛ける時、完全台本を用意してから話す。そうするとうまくいく。そういないと不安で話始められない。じゃあそれでなにか問題が起きたのかといえば、結果的に問題が起きたことは一度もない。ただ不安や変な緊張が出てしまう。あるいは、次も不安に襲われるのではないかという不安から、積極的な決断やアクションができないことがある。自分にとって有益な、楽しいことをしたいと思っても、そこに本来は考えなくて良い不安のような悪いイメージが湧いてしまい、それが次のアクションの妨げになってしまう。べつに友だちを誘って旅行に行けばいいのに何故かそれができない。いや、それは感情に負けているのかもしれない、論理的に考えて問題ないのだから、最後まで論理的にやり通さなければ行けないのかもしれない。そこで、やっぱり不安だから、と最後に感情に流されてしまっているところが、だめなところなのかもしれない。こうやってダラ長方式でなるべく全部吐き出すことで、これ以上何も考えたいことはない、という状態にして、マインドレス状態を実現する。自分ってそもそもなにを求めてたんだっけ。美味しいご飯を食べて、ゆっくりお風呂に入って、温かい布団で眠る、にんげんっていいなの世界観。これ以上何を望むことがあるのか。父が作った野菜を母が料理して食う。これを父母がいなくなってもできる状態を目標にしようかな。